読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

Undine

憎んだり愛したり忙しい

彼とはドトールにいかない

エッセイ

付き合うまえ、煙草を1年前と少し前にやめたのだ、と彼は電話口で云った。

「へー、そうなんですか。〇〇さんグルメですけど、ご飯美味しくなりましたか?」

私はせめて可愛いものをと考えて選んだ、フルーツの香りの細い煙草を、屋上の柵に押し付けて消した。

——うん、もう僕、すわないと思うよ。

ああ、吸殻は家に入れちゃダメだ、そう思って、ビニールに密閉した吸殻を、隣の家のゴミに紛れ込ませた。箱に残った数本も、まとめてゴミ袋に入れた。

なんだかその時、はじめて煙草がいい香りだって気がしていたから、棄てないといけないんだ、と直感したのだ。

もう吸いたいとも思わない、もとより食事が好きだから、口はそれで喜ばせればいい、らしい。たしかに、彼は無限にお店を知っている。

1年と少し前にやめて、あっというまに嫌煙家。

それは彼が彼女と別れた頃とほぼ同時期であり、裏を返せば、彼が彼女と結婚を決めた日なのかもしれなかった。

すてきね。家庭の・子どものためならすっぱり辞められるなんて。

彼は、そんな彼女に一方的に裏切られて、すたこらさっさと逃げられたのだけれど。お腹の子どもが実は違う男の種で出来てるなんて。畜生のすることね。

この世に存在できなかった彼の子どもの死体は、目黒川の底にねむる。水底できっと白金はきらきら。

わたし、そんなこと知らないから、この春、リクルートスーツで目黒川の桜を見にいった。その日五反田で受けた面接は、無事お祈りされた。

そりゃあ当たり前といえば当たり前かもしれない、半年後付き合う人の絶望が埋まった川で、お花見なんてしたんだから。おもしろいくらい、それは呪いだ。

でも私は嫌な女だから、そんな呪いのような奇跡すら尊べるのだ。

ありがとう、彼女がわたしなんかよりもぜーんぜん救いようのない女で本当に良かった。ありがとう、彼に正直に罪を告白してくれて。貴女のおかげで、いま私は倖せ。

あの会社の人事もありがとう、冴えないオフィスだと思っていたのが伝わったみたいだけれど、貴方の勧めで目黒川の桜を見て本当に良かった。あの川底に、捨て置かれた愛の脱け殻が落ちてるんだと思うと、もう最高に最低で、もう最高。

彼氏は今でも目黒を避けたがるし、しばらくは行けそうにない。だから、あの時桜を見られて良かった。ほんとうに。

きっといま一番遠い東京が、目黒なのかもしれない。

それはさておき、(目黒川に指輪を捨てるついでに越してきたという)今の彼の家は、本当に「彼の城」である感じがする。

なんというか、彼の好きなものがこれでもかというほどに詰め置かれていて、ひみつきちのような趣きだ。

それは私にとっても好ましい品々であるから、本当に、びっくりするほど居心地が好い。

ソファ(彼が寝転がって足が寸足らずになる長さ)に丸まって、彼の膝のうえに顎をのせる。今は私が主なのだと言わんばかりに。

彼が夏、1週間で棄てた女の臭いなど、わずかたりともない。彼の家は本当にびっくりするくらい、彼の匂い、もしくは彼の好きなものの香りしかしない。

それに彼は、わたしのためにニベアやミルク石鹸を買い置いてくれる。

2人でショッピングに行った時に買ったお鍋で、ご飯をつくる。私はクリスマスプレゼントに食器をあげた。その皿でご飯をたべる。歯を磨いて、お風呂に入る。フルーツの匂いのするシャンプーを、2人で使っている。

もっとはやくみーちゃんに出会いたかったよ、とか言う彼氏に、生乾きのままあたまを寄せる。

指輪をテーブルにそっと置くと、失くしちゃうからこっちにおくね、とか言ってデスクの方に移動される。

これは、あの夏だけいたあの女は、買ってもらえなかったもの。

これは、一年前の天災のような女がその途に捨てたもの。

彼が3ヶ月の分割払いで買ってくれたもの。あの日から3ヶ月は一緒にいられるという確約。ペイできるまで私は絶対に恋人で、あなたに愛される。それに2月にハワイの予約をしたのだから、それまでは絶対に私は愛されてるはず。

彼の匂いにわたしが混ざる。

ああ本当に、人から愛されるのって幸せで幸せで不安だ。失くしたくなくて涙が出る。愛を感じたいだけなんだけれど。較べて安心したくなるのだ。今までのどんな女よりも、私は幸せなんだと、そうはっきりと分かる証が欲しい。

彼の生活に、わたしが少しずつ食い込んでいく。

彼に爪痕を遺した彼女を、塗り潰すまであとどれくらいだろう?

「男の人から指輪をもらったのなんてわたし初めてだから、すごくうれしい」

ほんとう?とか言って彼も嬉しそうに笑って、抱きしめてくれた。

若くて了見の狭い私たちにとっちゃ、いつだって過去別れた恋人は悪人だ。今げんざい隣にいる人が一番素敵って思える毎日が、一番いい過ごし方なのだ。悪者のことなんて、綺麗さっぱり忘れて、わたしと・ぼくと幸せになってほしい。

普段から明るくて優しい彼は、私の前の恋人をすこし、ほんの少しだけ悪く言う。それが堪らなく気持ち良い。余裕を保ちつつ、男として上だと示すその様が愛おしい。

消してぬり潰して、陣取りゲームみたいなもの。連綿とつづく独占欲じみた祈り。

他でもない自分と、幸せになるべきなんだという思い上がり。

「うん、副流煙の臭いを嗅ぐとさ、首の横がギュってなるよ。わたしも別のとこで時間つぶしたいなぁ」

こんな回りくどい言い方をするのは、男だ色恋だやけっぱちで喫煙してさっさと辞めた自分が恥ずかしいからだ。本当にわたしは、しんからハタチそこそこの、乳臭い娘なんだと思い知る。

「昨日も行ったけどクリスピークリームがいい。昨日けいちゃんがドーナツ買うのみて、わたしも食べたくなってきたの」

それに、彼のために意を決して辞めたんだ、と思われるのが死ぬほどいやだからでもある。

あなたといると楽しくて寂しくなくて、自然に煙草とか辞めちゃったんだよね〜なんかそんないいもんでもないしさ、って、言外につたえたいからだ。

でもそれはあくまで、悟ってもらうのがいちばんだ。楽しさ、というのは、口にすればひどくチープで壊れやすい。

語るに能わない、愛よ。

「ドーナツおいしいよ。ひとくちたべる?」

私たちが口にするのは、煙でもなく、言葉でもなく、こういうもの、がいいのだと思う。