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Undine

憎んだり愛したり忙しい

遺された彼のお話

元彼と別れて、もう一年と少し。


別れの間際、どうして、どうしたってあんなに憎くなるのかしら。

元彼に吐き捨てた、呪いの言葉を思い出しました。

「人の気持ちもわからない、出来損ないのあなたが、人並みに幸せになることなんて絶対にない。出来損ないは出来損ないらしくしてなさい」


これは一つの意趣返しでした。

この人と付き合うと決めた日、彼は彼自身の父の自死を振り返り、「人の気持ちがわからない」「普通に幸せになりたい」と言って泣いていました。
その時私は「悲しがれるのだから、人の気持ちを持っているじゃない」「幸せだって夢じゃない」と言って慰めました。寂しそうなその背中を、支えたいと思ってしまったのです。

私は何一つ分かっていなかった。だって、恋したあの日、私は彼の背中しか見ていなかった。憐れっぽく私の気を引いてみせた、彼の貌がどんなに私を憂鬱にさせるか、気づいていなかった。
彼は人の心を持っていますが、人の心を解しません。解ろうともしていなかったのだと思います。

多分、簡単に人は死ぬと学んでしまって以来、自分1人生かすので精一杯だったから。解ったところで、人は死ぬと知っているから。だから、他人への興味がなくなったのだと思います。

そう気づいて以来、彼に向かうのが虚しくなりました。何人たりとも解ろうともしない彼なんだから、私を解ることなんて一生ない。私は、完全に自己完結している彼が、とても人間には見えなくなったのです。

(彼じゃ愛は確かめられない。)

彼はいつだって、「自分を」悲しがるのに夢中でした。その悲しい顔を見て私がどう思うかなんて考えていなかった。
どんな場所にあっても、 —そう、それがたとえ、彼自身の独り住まいの部屋であっても— 申し訳なさそうに、所在無げに佇むその影が、いつか確かに、薄気味悪く感じられたのです。

薄気味悪さは疎ましさに、疎ましさは憎さに姿を変えて、私の腹を支配しました。だってこの人って、幽霊か屍者。半死半生の化生のもの。彼岸の故人に心を囚われたままで、此岸の私・今・未来のほうなんか、本当はずっと見ていなかったのでした。

そんなこと、実はずっと前から気づいていたのです。認めたくなくて躍起になっていた、それだけなのです。

若くて夢みちあふれた甘い若者の私は、化物の彼氏をいつか此岸に連れて来られると信じていた。此岸での楽しい日々を教えてあげれば、なんとか人間になれる。私は人間の恋人と幸せになれる。

でも、そんなの無理でした。
彼は人間になりたくないんだから。

だって人間は、思い半ばにして、死ぬんですから。彼らの言葉に耳を傾け、理解しようと思った矢先に、口を閉じてしまう。続きを聞きたいと望むのは、過ぎた願いと思い知る。

死者は黙して語らず、生者だった頃の言葉を型取り、緩やかに固まります。象られた死者は人の心の中で、実体なき標本になります。
もう思考せぬ亡骸を解ることなんて、もう永劫不可能なのです。

話らおうとする夜も、彼は無口で、口を開いたかと思えば静かに泣くしかしませんでした。言葉を交わし、相手を解ろうとなんて思っていない。言葉が無意味だと、諦めているから。

彼の想いはあまりに微かで、彼の声はあまりに遠い。対岸を眺むかのように、あまりにもおぼろげな像でしか、彼を捉えられない。

 

幾度となく、それなら死んでしまえと思いました。同じくらい、一緒に生きたいと泣きました。でも、どうあっても無理なのです。人に笑顔を手向けようとしない化生に、人生を楽しむ道理などないのです。
苦しく生きるか、楽に死ぬかです。

人間、幸せだから笑うのではなく、笑うから幸せなのです。笑顔をくれる人がいるから、笑顔を向ける人がいるから、人は幸せなのです。そういうことが、笑わぬ化物には解らないのです、から。

死ね、と、はっきり口に出して言いました。遂に言ってしまったのです。
そんなに悲しそうに生きるなら死ね。生きたくない死にたいと嘆いて泣け。化物のくせに、人の気持ちに不感症のくせに、人でなしのくせに。人の幸福に嫉妬など、身の丈に合わず生意気だ。


私が彼のもとを離れられない理由は、ただひとつ、罪悪感でした。見捨てたら死ぬような気がしたのです。私は彼を殺したくなかった。
しかしいつぞやついに、嫌悪感が罪悪感を上回った。私の手を離れたタイミングで、彼が泣こうが死のうが、気づけばさして問題ではありませんでした。

感情は軒並み全て鈍磨してしまったのに、人の幸せを見透かす目だけは曇らなかったのが、彼の悲しいところでありました。感じる(解る)ことはできないのに、識る(判る)ことができたのが、一番の悲劇です。

だって、恋している時の私には、凪いで透きとおった彼の目しか、見えてなかったのです。2人で見つめ合うしかしていなかったから、その不気味な、うやむやと蠕く口もとに気づくのが遅れた。

彼は、蒙昧な幸せを、愚かで(だからこそ)可愛い女と追い求めれば良いのです。幸せだから笑うのだと信じて疑わぬ、哲学なき女と。

なんて強情で、酷い女なのでしょう、私は。傷つきやすい彼の、傷つく言葉が簡単にわかる。彼を思いやるからわかっていた。わかっていたからこそ、言わずにいたのに。

どうせ2人で幸せになれないなら、散々まで憎んでほしかった。それでも彼はきっと私を憎まず、きっと己を悲しむのです。


ああ、本当に早く、死ねばいいのに。

うそ、ほんとうは、憎くなんてありません。ただただ悲しくて、遣る瀬無くて、そう言うしか見つからないのです。

 

ああうそ、うそ、やっぱりうそ。ほんとうは、幸せになって欲しいのです。

でも、彼の幸せを揺るがずに願えるほど私は強くもないし、考えなしでもないのです。

 

傷つきやすい彼はこれから先、滅茶苦茶に傷つく。

みすぼらしいと言われて。

学歴の割に暗愚だと言われて。

親が自殺しているうちの子と親戚になんかなりたくない、と言われて。

これらはすべて、彼と付き合っているうち、私に差し向けられた言葉たちです。だからもう、私は彼が悲しくて仕方ない。彼が自分を悲しがるように、私も彼を。

絶対に幸せになんてなれなかったのだと、こうして時間差で思い知っていく。