Undine

憎んだり愛したり忙しい

僕らはみんな日々の奴隷

『日常』の力はあまりに強い。仕事にも慣れ、職場の人達にも慣れ、私はこの仕事を、とても魅力的に感じている。

妊娠の騒動から4ヶ月、私と彼は壊れそうになりながらそばにいた。あんなことがあったから、お互い離れるということがすっぽり頭から抜け落ちてしまっていたらしいのだ。


現実に打ちのめされ、現実に迎合してゆくうち、私は日に日にやつれていった。
多忙だから、お金を払うのは彼だから、私は彼に最大限譲歩した。美味しいご飯も、素敵な音楽も、面白い本もそこにはあったからだ。でも、何かが満たされなかった。ぽっかりと心に穴が空いて、彼が朝方眠っているところから起き出して、緑色のソファに丸まった。彼の着せてくれた可愛いTシャツ、彼の汲んできてくれたお水、朝になれば全てが温まって、陽に照らされて陳腐な感じがした。

この日々は、夢みたいだと思った。どこに行っても感じるのは、「ここは私の日常ではない、私の居場所じゃない」って、そんなことばかり。
こんなの、ずっとは続かない。私の現実に、彼はどうしてもマッチしなかった。
そんな夢なら、覚めないといけない気がした。真っ白な部屋で、笑えるくらいの感傷に浸り、私は泣いた。

そういう朝が、何回もあった。

しかし泣けど叫べど、彼の部屋にいるときの私は、外にいる私よりずっと可愛かった。彼のいだく夢にならった、「可愛い彼女」であるのが仕事だったからだろうか。

また彼の部屋において、私はまちがいなくペットだった。不安定にゆらゆらゆれる私を見て、彼は何を言うでもなく、ねこちゃんを飼おう、なんて言っていた。

私が人間の悩みをもって、人間として生活しているということについては、見ないふり、聞かないふりをしていた。こんな日々、ほんとうに続くというの?そんな不安な心の叫びを押しとどめて、私は彼氏の選んだ可愛い服を着ていた。
彼はこんなに悲しい私の髪を梳いて、幸せそうにテレビを眺めていた。



あの日、彼は「もう背負いきれない」と言った。
あの日、私は「背負えなんて言ってない」と言った。


心底、彼のことを馬鹿みたいだと思った。
私は数十万で売られる証明書付きの猫ではい。彼が熱を向けてやまない、フワフワとして形のない、未完成で可愛いアイドルでもない。
職を持ち、家に住む、22歳の人間の女。質量を持った実像だ。
そんなものを背負うなんて、まちがいなく馬鹿だと思った。隣を歩くというのが、パートナーシップだと思っているのに。

同時に、気づいてしまった。彼は私のこと、人間としては好きじゃない。彼は私のこと、どこにでも連れて歩いてくれたけれど、ペットやアイドルやアクセサリーとして、大好きだったというだけなのだ。だから私の人間性やそれに伴う脆弱性、独立性みたいなものを、認められなかったんだと思う。

人間として女を愛して、その女に捨てられた哀れな男に、私は何を期待していたのだろう。私を人間としては見てくれなかった男。束縛の指輪も、例のごとく目黒川に投げ捨てればいい。



ああ、これは、来たるべき終わりだ、と感じた。
2年前の別れなんかよりも、余程すとんと胸の底に落ちた。きっと私が聞きたかったのは、彼のいう嘘みたいな「結婚したいくらい好き」じゃなく、「結婚の好きとは違うけど好き」という本音だったんだと思う。


夢のことは、覚めれば忘れる。まだ2週間、1ヶ月だって経っていないのに、私はもう彼がどんな声だったか忘れてしまった。

彼が作ったものも未だに好きだが、あの日の出来事たちが、かつて聞いたお話たちが、童話のように遠くきこえる。欠けて抜け落ちたように実感を失って行く。彼の顔も、いつか忘れる。


今度はうつつにて愛をはぐくみたい。